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明智光秀も本能寺の変も含めて怪しい歴史の一人? [日本の習慣]



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日本の歴史には多くの謎がありますが、織田信長にしても。。。その死体は確認されておらず・・・地下で通じていた南蛮寺に逃げたのではないか?


その南蛮寺に通じていた通路を埋めておき・・・殺害したのは豊臣秀吉ではないか・・・といろいろ囁かれています。



◆明智光秀は家康につき天海和となって生き続けた




明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、逃走中に死んだとされています。


しかし、明智光秀=天海説が持ち上がるように、実は明智光秀は死なずに生き残り、しばらく比叡山で過ごした後、南公坊天海として家康の参謀としていろいろな政策に関与していたという説があります。


その主な原因鋳は、天海と光秀の書状の筆跡が同じという結果が出ているのです。


はたして、天海と光秀は同一人物





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◆専門家の歴史研究に振り回わされる国民




これまでの“常識”が覆ることがある。



光秀謀反の本当の理由は、髪の毛の薄かった光秀の頭を殴り、恥をかいた光秀・・・と言うのである。



明智光秀はライバル大名を次々と滅ぼし、比叡山延暦寺などの寺院まで攻めて天下統一を目指した織田信長の家臣。天正10(1582)年、京都本能寺に宿泊中の信長を襲って死なせ、謀叛人として名を残した。歴史作家の桐野作人氏が光秀の実像について指摘する。



明智光秀が主君・信長を討った「本能寺の変」。光秀が謀叛を起こした動機は謎で、「怨恨説」「義憤説」「野望説」など諸説ある。


信長の家臣・稲葉一鉄の子孫らが書き残した『稲葉家譜』。


そこには光秀を「本能寺の変」へと駆り立てた動機が明記されている。その現代語訳は次の通り。


信長は光秀が法に背いたのを怒って呼びつけると、譴責してみずから光秀の頭を二、三度叩いた。光秀は髪が薄かったのでいつも附髪を用いていたが、このときそれが打ち落とされたので、光秀は信長の仕打ちを深く恨んだ。謀叛の原因はここに起因する・・・。



◆年齢も怪しい光秀


通説では当時光秀は55歳。実は光秀の年齢について「67歳だった」とする説があり、近年はこちらのほうが有力となっている(*)。67歳であれば、髷が結えないほど禿げていたとしても不思議ではない。


【*:55歳説は『明智軍記』によるものだが、そもそも江戸中期に作られた軍記物で史料としての信頼度は低い。一方、67歳説は江戸初期に作られた『当代記』による。作者は家康の外孫・松平忠明と言われており、脚色がほとんどなく史料としての信頼度は比較的高い】


光秀が当時67歳だと考えると、腑に落ちるエピソードがいくつもある。


光秀は和歌、連歌を嗜み、京で連歌師・里村紹巴や、当世一流の文化人・細川幽斎らと対等に付き合うほどの教養人だった。実際に、光秀の詠んだ連歌がたくさん残っている。67歳と高齢ならば、並の武将より一段高い教養を身に付けていたとしても不思議ではない。


また、ポルトガルの宣教師フロイスの『日本史』によると、信長は中国地方の毛利氏を討伐して天下を統一した後は、スペインと組んで中国大陸へと進出する計画があったという。


その総大将として派遣されるなら、家臣としての格や担当方面からして秀吉か光秀しかいない。すでに高齢の光秀が、生きて帰るとも知れない海外派兵を忌避する気持ちは強かったろう。



嫡男・光慶は元服前の13歳と若輩で、自分が死んだ後のことを心配した形跡も見える。領地が没収されて明智家が衰退すると考え、絶望したかもしれない。



さらに信長の政策転換により、友好関係から対立関係となった四国の長宗我部氏との問題では、取次役であった光秀が板挟みとなるなど、67歳という高齢の身には堪える出来事が続いていた。信長に折檻されカツラを打ち落とされたその時、光秀は「本能寺」を決意したのかもしれない。




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