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美輪明宏氏の異次元度を見せつけた紅白での『よいとまけの唄』? [日本の習慣]



平幹二朗さんの天才度は、小生がとやかく言うまでも無くその卓越した演技力は常人の域を超えていたことは、平幹二朗さん演じるマクベスで『文句のカタマリみたいな蜷川幸雄氏』てせさえ、平幹二朗さんの天才度には、ただただ感嘆させたと言わせしめたと言うことからも証明されるのです。
常人の域を超越した演技力だったといわれており、出身母体の『新劇』も『これで終わった』とまで落胆を隠せないようです。


平幹二朗さん急死・ホモで有名だか宇宙観が全く異次元の真の芸術家達?
http://kagefumi811.blog.so-net.ne.jp/2016-10-24-2


この天才演技家・平幹二朗さんから想いださすのが、投稿で三島由紀夫氏のお相手とさせて頂いた美輪明宏氏なのです。




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◆2012年のNHKで美輪明宏氏が起こした事件


涙・・・涙の物語・・・美輪氏は一人芝居をNHKの大舞台で演じたのですが、この唄の存在すれ知らなかった若い世代からまで・・・全員が美輪明宏氏の一人芝居に陶酔してしまったのです。


美輪明宏氏の演技が終了した瞬間・・・NHKホールは一瞬の静寂に包まれ・・・その後、怒涛のような拍手へと進展したのですが、その位、美輪明宏氏の『ヨイトマケの唄』は衝撃的だったと言えます。小生もその一人でしたが、


派手にアクションも衣装も無く・・・地味な服装で歌う『美輪明宏氏のヨイトマケ唄』


【NHK紅白で全員を釘付けにした美輪氏のヨイトマケの唄】
https://www.youtube.com/watch?v=sMxfM230jt4



◆ヨイトマケの唄が辿ってきた数奇な運命


紅白の美輪明宏の『ヨイトマケの唄』が素晴らしすぎた件」・・・この歌、これだけインパクトを与える歌、しかも美輪明宏という有名人が唄っているものにもかかわらず知名度が低く、はじめて知ったという方も多いでしょう。実はそれには、この唄が辿ってきた複雑な歴史があります。


『ヨイトマケの唄』は聴いて分かるとおり、貧乏な家で育った子供が、母ちゃんの仕事のことでいじめられつつもそのがんばる姿を見て立派に成長し、その母ちゃんの唄っていた『ヨイトマケの唄』のことを思い出すというものです。


ちなみに「ヨイトマケ」とは昔、土木作業の機械化が進んでおらず、労働者の力仕事で行われていた時代に、地固めをするために使われた、大勢で縦になった丸太の様なものを持ち上げて下ろすための道具及びそれを作業する労働者で、語源は「よいっと(縄を)巻け」から来ているなど諸説あるようです。


更に転じて日雇い労働者そのものを指す言葉となっていたようです。美輪明宏氏は、若く、まだ丸山明宏として今の姿ではなく男性の姿で活動していた時代、自ら作詞、作曲して作られた曲ということです。


しかしこの唄は、テレビで唄われることがほとんど(全部、ではないです。後述)ありませんでした。というのはこの唄が「放送禁止歌」に指定されてしまったためです。




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◆美輪明宏氏は遊郭の息子


どういう人間が美輪明宏氏のような感性を得ることができるのか? 美輪明宏氏の生い立ち・経歴を調べてみました。


美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街で、『世界』という名前のカフェを経営していた。


1941年12月、イギリスやアメリカとの戦争体制に入った中で、美輪の父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、カフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。


10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが、その後、近くの防空壕で待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする。


1945年8月9日、雲一つない快晴の日、10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の万寿姫の絵を描いていた。できあがりを確かめるため、2、3歩後ろに下がった時、原爆がさく裂した。


何千ものマグネシウムを焚いたような白い光だった。美輪は雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。が、直後には世界が息を止めたような静寂に包まれる。


その直後に激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。お手伝いに促され2人で布団をかぶると空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。隣接する劇場は天井が崩れ落ち、勤労奉仕の女子挺身隊の宿舎は形を残していなかった。


原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。


その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。


終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では、同期に西岡武夫がいた。


エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春に国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学の為、15歳で上京する。


家業の倒産をきっかけに高等学校を中退後、進駐軍のキャンプ廻りをしながらジャズを歌う。


2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。


翌1952年、当時17歳の美輪は、新宿駅で寝泊りしていたが、銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』の美少年募集の張り紙をきっかけに、銀巴里との専属契約を交わし、歌手デビュー。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。


次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。


1957年、 シャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する(自伝『紫の履歴書』)。同じ、1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。


「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。


その間に、週刊誌にて、自身が同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。


そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」などの作品は、この頃、既に作詞作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血など原爆症に悩まされ始める。


しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催。翌、1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めてステージで披露する。


1966年、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され人気が再燃。


徹子の部屋に出演した美輪氏は遊郭時代を懐かしそうに話していた・・・苦労して遊郭に身を落とした人もいれば、三味線等の芸人もおり・・・昼間っから・・・大騒ぎの日々であったと・・・。


持って生まれた美輪氏の完成もあるのでしょうが・・・やはり子供時代の思い出は人間形成に大きな影響を及ぼすのでしょうね?


最後にもう一度・・・。神の演技を・・・。


【NHK紅白で全員を釘付けにした美輪氏のヨイトマケの唄】
https://www.youtube.com/watch?v=sMxfM230jt4




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